二本松と会津若松へ

2泊3日で二本松城と鶴ヶ城と日新館を観光してきました。
この地域は戊辰戦争の激戦地の一つで、燃え盛る鶴ヶ城の城下町を見て自刃した白虎隊や、腰に刀を差しスペンサー銃を構えて篭城戦をした新島八重などが有名ですね。
歴史などについては、ぼやーっとしか知らなかったんですが、今回友達が用事のついでに観光に行こうということで、お供させていただきました。

二本松城

群馬から二本松まで東北自動車道で3時間ほどです。土曜の夕方に出発して途中のPAで一晩明かし、翌朝二本松城へ向かいました。この日はマラソン大会があったようで人が多かったです。

城の前には二本松少年隊の像が設置されています。
銃を構えていたり、刀で突きを繰り出している格好の動きのあるリアルな像です。

二本松少年隊で有名な戦いとして大壇口の戦いがあります。言い伝えによれば戦力自体は劣勢ながらも好戦だったようで、二本松少年隊の錬度の高さがうかがい知れます。

大壇口の戦い http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/battle-oodanguchi.html
慶応4(1868)年7月29日、板垣退助率いる新政府軍と、二本松藩士・丹羽右近(にわ うこん)率いる二本松軍が繰り広げた二本松の戦いの攻防の一つ。当時、二本松藩士の多くが白河口に出兵し兵力が不足していたため、やむなく木村銃太郎率いる少年隊に出陣を命じます。戦場となったのは、二本松城の南に位置する大壇口。小高い丘で、奥州街道を北上してくる新政府軍を食い止める、最後の砦でした。
決戦前日、銃太郎は少年隊士を連れて、大壇口へ向かいました。しかし、数え年13歳から17歳までの少年たちには、「命をかけて戦場に行く」という悲壮感はなかったようです。大壇口に到着した少年隊士は、畳を重ねて作った即席の防柵をたてて、敵を待ち構えました。
翌日、新政府軍は進軍してきました。対する二本松軍で大壇口を守っていたのは木村隊長率いるわずか25人あまり。木村隊長の合図とともに、少年隊士はいっせいに新政府軍の隊列めがけて砲撃を開始します。その砲撃は的確で、一時は新政府軍の前進を止めるほどでした。当時のことを、新政府軍の指揮官・野津道貫(のづ みちつら)は「我が軍は正面攻撃では奏功せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、恐らく戊辰戦争中第一の激戦であつたであろう」とある書物に記しています。
善戦するも、新政府軍の兵力に、少年隊は退却を余儀なくされます。木村隊長が少年隊士に次の指示をしようとした時、一発の銃弾が彼の腰部を貫きました。この傷では城に帰ることはできないと悟った木村隊長は、少年隊士に自分の首を落とすように命じます。少年隊士たちはこれを拒みますが、最終的には少年隊副隊長の二階堂衛守(にかいどう えもり)が介錯しました。
その頃の二本松城下は、すでに新政府軍の占領下にありました。城に残っていた老兵たちが必死の抗戦を続けましたが、二本松城はその日のうちに落城しました。
二本松の戦いでの二本松藩の戦死者は337名、負傷者は71名でした。

近くの資料館にも寄ってみたが、展示品は多くなかった印象です。敗戦した際に新政府に押収されてしまったのでしょうか。

会津野ユースホステルに宿泊

次の日は鶴ヶ城と白虎隊ゆかりの地を巡るため、会津野のユースホステルを予約しておきました。
アットホームで雰囲気が良い所でした。広大な田園の中にぽつんとある感じですがこういう感じも好きです。4G回線も問題なく通っています。

夕飯はわっぱ飯、朝食はペアレントさんが焼いたパンが振舞われました。

おいしかったです。メニューも非常に健康的です。
朝食を食べた後、ペアレントさんに挨拶をしてユースホステルを後にしました。

鶴ヶ城

26日月曜日、鶴ヶ城へ向かいました。
こっちの方の道路は本当にのんびりしていてすごく居心地が良い。平日の地元だったらみんなが我こそはとせかせかしてる雰囲気ですがこちらにはそのような感じは殆どありません。

車を走らせること10分弱で鶴ヶ城付近に到着しました。南側の無料駐車場に止めて徒歩で城内へ向かうのですが、一番近かった東の橋が工事中だったのでぐるっと北に回る必要がありました。
ぐるっと回ったお陰か、鶴ヶ城の北にある道場「武徳館」の存在に気づけました。これもまた立派です。このような立派な道場で稽古をしてみたいものです。

駐車した場所から徒歩20分ほど。城の敷地にようやく入れました。
安定感を感じさせる造りでこれまた壮観です。城の石垣は郭の石垣と違い、無加工で組まれごつごつした印象に見受けられました。

入場券を購入して城内へ。
城内は殆どのエリアが撮影禁止になっていました。簡単に撮影されてしまっては展示物の価値が下がってしまいますからね。
展示物は鉄砲、刀、書物などです。動画や図で白虎隊や城にまつわる事柄が解説されているところもありました。
個人的に展示物の中で一番目を引いたのが刃こぼれが2箇所ある刀でした。腰のお飾りだった刀よりも、実際に打ち合って刃こぼれをしている刀の方が比にならないほど見ごたえがあります。

NHK大河ドラマ「八重の桜」で山本八重役の綾瀬はるかさんが着ていた衣装が展示されていました。

順路の最後は天守閣です。当時の人がどのような景色を見ていたのかがなんとなく想像できそうです。
天守閣から見た飯盛山方面。

飯盛山

鶴ヶ城といえば白虎隊の話が有名です。白虎隊は本来城下を守る予備兵力でしたが、人員不足から前線へと進軍することになりました。2番隊は戸ノ口原で打撃を受け、飯盛山まで退却するも、燃え盛る城下町を見た隊士達は2つの決断に迫られました。鶴ヶ城に戻り戦うか敵陣に斬り込んで玉砕するか。いずれにせよ負け戦であったため、武士の性分を果たすべくその場で自刃をするという決断に至ったそうです。自刃した20人のうち、喉を付いた1名のみが生き残り、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっています。

隊士達が潜伏した洞窟

自刃の地の手前にさざえ堂という変わったお堂がありました。どうやら中はらせん状になっているようなのですが、天辺には何があるんでしょうか・・・気になりましたが人が多かったので楽しみは次回に取っておくことにしました。


このさざえ堂、横から見ると傾いているんですよね。これがまた良い味出してます。

少し上ると広場になっており、白虎隊士の名前が刻まれた墓が並んでいました。
さらにおくに進むと自刃の地が現れました。分かりづらいですが、画像中央に鶴ヶ城があります。景色は当時と違えど、隊士達も同じ方を見ていたことでしょう。

おわかりいただけただろうか。。。何故かこの画像から中央右あたりに黒いモヤが入るようになってしまいました。
最初はレンズの汚れかと思い、よく拭いてみましたが変わらず、光の加減かと思って、手で日光を遮ってみても変わらず。。。
仕事でデジタル画像を取り扱っていますが、このようなぼけ方は今まで見たことがありません。このときはとりあえずCCDの劣化か何かだろうと思うことにしました。

日新館

白虎隊の学び屋 日新館も行って見ました。友人曰く、会津には昔からよく来てるけどこんな建物無かったなぁ。それもそのはず、調べてみたら1868年に戊辰戦争により校舎は焼失しており、残っていた物は展望台後のみだったそうです。それを1985年に火の手を免れた図面を元に総工費34億円を費やし復元をした施設です。

日新館は今で言う「国語・算数・理科(天文学)・社会」に加え、「弓道・砲術・剣術・柔術・馬術・潜水術・兵法」などを教わる防衛大学のような学校だったそうです。
現在は弓道場や道場は料金を払うことで借りることができる施設になっています。弓道や座禅、茶道、赤べこの絵付けなどが有料で体験できます。

今回の旅行の感想と後日談

今回、友人の奥寺さんと2泊3日で会津若松と二本松を周ってきました。二人で写真を撮っていると、「撮ってやるよ」と気さくに声を掛けていただいたり、スタッフ張りに一般の方が丁寧に案内していただいたり、福島の方々は本当に親切で、観光客を大切にしている県なんだなとほっこりしました。

二本松城と鶴ヶ城を周ってきましたが、両方とも素晴らしい立派な城で佇む姿は実に壮観でした。二つの城の石垣の積み方のコンセプトは異なるようですが、どちらとも内側に荷重が落ち込み合うように組まれているのは共通で、実に良くできているなと関心します。また、城で活躍していた二本松少年隊、白虎隊、新島八重のストーリーにも胸を打たれました。少年隊の錬度の高さ、白虎隊の武士としての精神、男尊女卑が当たり前だった時代に最新式の銃を持って戦った新島八重。そうだドラマ「八重の桜」のDVDを借りなければ。。

CCDの故障か劣化かと思われた黒いモヤがかかる現象ですが、帰宅後に試しに空を撮って見たところ、何も写らなくなっていました。

自分は信心深い方ではないのですが、このような現象が身に起こると相応の敬意を払わなければならないと思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です