学校とは均一で従順な国民を育成する施設

明治政府が国策として取り組んだ学校教育の目的は、多様な人間を「教育」というフレームワークに当てはめることで、考え方や価値観を均一化させることだと考えられる。そして、現在の教育機関もその流れの延長にある。これからの時代は均一な人間よりも個性のある人間の方が輝ける世の中になってきているため、今行われている学校教育は時代に合っていないと考えられる。

中央集権をめざす政府には均一な国民が必要だった

多様で幸福な江戸時代

明治時代より前、江戸時代には様々な職業や古くから受け継がれている芸能や文化があり、百姓と言われるように100の仕事を持つかのように多様な生き方をしていた。自由な生き方をしていた江戸時代の民は、一説では幸福度が最大だったと言われている。

初代駐日公使であるタウンゼント・ハリスの日記には以下のように書かれている。

彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。—-これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h22/jog680.html


タウンゼント・ハリスは「果たして外国の影響を与えることが人々の幸福を促すことになるかは疑わしい。」という国交に関してネガティブな感想を述べている。他の日本に訪れる外国人の手記も読むと、江戸時代の民は食料や富は平等に行き渡っていて、質素で幸福だったことが読み取れる。

富が平等に行き渡っていたことの裏づけとしては治安の良さが参考になる。江戸の人口50万人に対し、今で言う警察官は約250人と少人数で治安が維持できていたそうだ。

町奉行 – Wikipedia

ちなみに現在の東京都は人口約927万人に対して、警察官の数は約4.3万人となっている。警察官の数は江戸時代と比べると人口比率で約9倍に増えていることがわかる。かつては悪さをすれば制裁として村八分にされ、村や町全体が自警団として機能していたことも警察官が少なかった理由かと思われる。

警察官数ランキング

タウンゼント・ハリスの言うとおり、江戸時代の日本人こそが本来の日本人の姿なのではないかと思う。

均一性を求められる明治時代

多様で幸福だった江戸時代だったが、大政奉還後に戊辰戦争が勃発し旧幕府軍は抵抗をするが敗北。江戸時代が終わり明治時代に変わった。明治政府は欧米を参考に「富国強兵」のスローガンを掲げ、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策を行った。具体的には、殖産興業による資本主義化と、軍隊の近代化と徴兵令を行った。資本主義で国を豊かにするためには、均一な労働者と、政府という中央集権機関を効率的に機能させるための従順な国民が必要だったと考えられる。以前の江戸時代の民は多様であったがゆえに、教育による均一化が必要だった。

道徳教育による国民の統制

明治5年に太政官により「学制」が公布された。近代的学校制度を定めた教育法令であり、国民皆学を目指すというものである。学制を発端として様々な教育制度が施行されていった。

当初の明治政府は学校教育により、

  • 立身(出世すること)
  • 治産(財産管理をすること)
  • 昌業(商売を繁盛させること)

以上の知識・技術を学ばせ、商業に特化した人材を育成するだけの予定であった。しかし、政府の藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求する自由民権運動が起こったことで、デモを危険視した政府は、学校教育の統制にも働くようになった。1879年に明治天皇より「教学聖旨」という教育方針が政府に提出され、仁義・忠孝(君主に対する忠義と親に対する孝行)の道徳教育の重要性が説かれた。道徳教育を使って国民の思想のコントロールを試みた。

道徳教育で国民の思想をコントロールした事例を一つ挙げるなら「郵便貯金」がある。国策として貯金を推奨し、小等教育で貯金の美徳が説かれていた。その甲斐があって、現在の日本人の資産のうちに占める預貯金率は51.5%と非常に高い水準になっている。ヨーロッパは33.2%でアメリカは13.4%しかないことから日本の預貯金率の高さが分かる。

現在の教育も立身・治産・昌業のための知識・技術を学ばせることが目的だとしたら、簿記などを必履修科目にするべきである。なのになぜお金関係の教育をしないのかというと、下手にリテラシーを上げてしまったら、均一な労働者になってくれなくなってしまう。そのようなリスクを抱えるより仁義・忠孝を学ばせて、天皇を神格化させ、天皇と政府に従順になるように教育したほうが政府としては都合がいいからではないだろうか。

現在の道徳の学習指導要領でも集団に納まることの美徳を説いており、均一な国民、均一な労働者を育成するような内容になっている。

身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。
働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。

学習指導要領「生きる力」 – 文部科学省

集団内で活躍することを説いているが、反対にリーダーシップを取るような教育は載っていない。この方針では保守的な人しか生まれなくなってしまう懸念がある。そして実際に日本人にはその傾向がある。集団内で与えられた役割で活躍できるというのは悪いことではないが、一方で集団から抜き出たリーダーシップの必要性もあるだろう。

まとめ

上記のことから、学校というものは、均一で従順な国民を育成するための施設であることが分かる。時には道徳教育により、思想を植え込まれることもあり、現在も教育全般的にそのような傾向が見られる。お金に関する教育は必履修科目ではないし、社会科の教科書にはフィルターが掛かっている。道徳では集団としての活躍を説いているが、リーダーシップを取るような教育はなされない。

決して学校を全て否定しているわけではない。学校というものは、人が社会に依存している以上、ある程度の協調性は必要である。そのため、皆が学んでいることを学ぶことに意味はあるし、独学では学べないような基礎的な知識も付けられる。何より”学ぶという行為”を学ぶことが出来るため、学校は必要であると思う。

現在の社会には勉強についてこれない児童や生徒を落ちこぼれとする風潮があるが、そのような生徒はたまたまその勉強をすることに適正が無いだけであり、その児童や生徒が持つ何かしらの特技を生かすような教育を行えばいいのではないかと思う。たった一つの設定されたフレームに当てはまらないというだけで全ての面で落ちこぼれと考えられるのはおかしい。

本来、学校教育とは富国のために行われるべきことであり、決して偏差値を上げる事が目的ではない。これからはグローバル化と情報技術の発達により、均一な労働者より、個性のある人間の方が有利になってきている。現在の教育を考えてみると、時代に合っていないと感じる。

ファイル・ロケーション: 随筆

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