正義とは共同幻想に過ぎない

正義とはなんだろう。日本であれば、日本の法律に抵触する行為に関しては法律の下で審議され罰せられる。では法律が絶対的な正義なのかというとそんなことはない。法律とは、万人が心地よく過ごせる社会秩序を実現することを目的に、画一的に決められたルールに過ぎず、それに同意できない一定少数の人たちが、犯罪者として出現するのは当然の現象であると思われる。

例えば、この国では合法なことでも、あちらの国では違法な事は沢山ある。例えばアメリカのコロラド州では21歳以上で規定の所持量を守れば、大麻の所有・娯楽目的の使用が許されている。大麻の依存性はコーヒー程度といわれている。しかし中国では覚せい剤の使用が確認された場合は厚生施設に収容され、密輸の場合は最悪の場合、死刑になる。シンガポールではガムを所持して歩くと罰金を取られ、同性愛は不道徳として法律で禁止されている。

例えば、ホロコーストを推進した責任者とされるアドルフ・アイヒマンは裁判で「法に従い、秩序の維持に努めたに過ぎない」という趣旨の主張を貫いた。後に、誰もが権威の下では冷酷になれる可能性があるということが「ミルグラム実験」で証明された。今、過去を振り返ると道徳的に許されないような行為が行われてきた時代はあったが、その都度正しいと思う決断の連続で時代が作られてきたはずであるが、人はいつの時代も無意識に過ちを犯し、時代が移り変わり過去を振り返ってから過ちに気づく。アイヒマンの例のように、権威に暗黙的に従っている人たちには、現在行っている事の善悪を判別する術は無いのだと思う。もし間違っていると気づき、異を唱える者はそのイデオロギーの中で悪となる。

「その時代がおかしかった」「そのイデオロギーがイレギュラーだ」と言えばそれまでだが、自分のイデオロギーがイレギュラーだとしたら、どうやってそれに気づくのだろうか?今の時代がおかしいとしたら、いったい誰がそれを指摘するのだろうか?

正義の本質とは、多数決に帰結するのではないかと思われる。多数派が支持していることが正義となり、少数派が支持していることが悪となる。イデオロギーが変われば正義も変わる。正義か悪かは対象が属するイデオロギーが決めることであり、個人が判断することは不可能ではないかと思う。正義とは多数派が見ている共同幻想ではないだろうか。

ファイル・ロケーション: 随筆

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