知識に経験という裏打ちは無価値

「経験をする」という事は純粋に事実をそのまま知るという事である。例えば車に乗るという経験であれば、流れる景色、振動、車内の匂い、エンジン音などを五感によって知る。経験している瞬間は知識と対象が合一している状態にある。運転が終わり、車から降りてしまえば、車に乗るという経験は「記憶」に変わる。

「記憶」においては、現在直感している事ではなく、過去の意識が戻ってきているわけでもない。過去と感じるのは現在の感情である。

経験していない事柄に対して知識を披露する事をしばしば「知ったかぶり」だとか、浅知恵として見下す傾向にあるように思えるが、知識に「経験という裏打ち」は無価値なものと思われる。その知識について、経験して得たものなのか、本を読んで得たものなのか、人から聞いて得たものなのか等、入手手段の差に過ぎない為である。

ところで、我々が持っている知識の中で一体どれだけの事柄を経験した事があるだろうか?例えば心臓が止まったら死ぬという知識を持ちながら死んだ事は無いはずだし、電車がモーターで動いていると知っていても電車のモーターを肉眼で見たことがある人は少ないはずだ。そのように、おそらく殆どの知識は実体験からではなく見聞きなどで間接的に得たものではないだろうか。

確かに経験で得られる情報量は莫大な物かもしれないが、経験自体に尊さはそれほど無い。知識とはデータに過ぎない。知識は役立つように利用されるべきであり、経験した事があるという裏打ちは本来の目的には不要・無価値であると思う。

ファイル・ロケーション: 随筆

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