金山城跡

金山城の歴史

今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純(いえずみ)が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下克上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。

天正18年(1553)、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。

旧通路

西矢倉台西堀切内の通路を隠すように盛られた土塁状の高まりの下からは、通路の宴席と思われる石列がみつかりました。この石列により、西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道(かけはしみち)からまっすぐ西へ進む通路があったと考え、発掘調査によって通路を確認しました。この通路は岩盤に丸太をかけて作られた桟道とは異なり、地山を削りだして通路を作っていた事がわかりました。桟道は、急斜面で岩盤が張り出しているため、岩盤を加工して通路を作り、岩盤の張り出していないこの部分では、地山を削りだして通路を作っています。このように当時の地形を利用して通路を造った様子がうかがえます。

西矢倉台西堀切

西城から本丸までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、掘底に石をしいて通路として利用しており、通路の先は桟道へと続いています。また、通路の北側には柱穴があり、北側からの敵兵の侵入を防ぐための柵があったと考えられます。

西矢倉台下堀切

西矢倉台の西下に作られた防御施設で、西城から本丸へ向かう間の二番目の堀切となります。この堀切は大堀きり、物見台下堀切と比べて規模は小さく、堀切は実城に近づくにつれ幅が広く、深く造られています。

虎口

入り口を狭くすることで敵の流れ込んでくる勢いを弱めます。

 

正面は行き止まりになっており、本丸へ向かうには狭い階段を上らなければなりません。

馬場通路・石塁

物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は、来たの長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。さらに、長手口から、北側の岩盤を険しく見せるための視覚的効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし、調査では丈夫の崩落が著しく、塀の痕跡は発見されませんでした。物見台から東の南斜面際では、石敷きされた通路が発見されました。この通路は物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐しています。

物見台

物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台基壇からは、釘や火縄銃の弾丸が出土しています。この物見台からは、金山城の周囲が欲見渡せるため、敵(上杉謙信)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。

物見台からの景色。

馬場曲輪

物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。馬場曲輪の調査では、岩盤を刳り貫いた柱穴が240個以上みつかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。また、建物は少なくとも5回の立替、曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に作り替えを行っていた事も明らかになりました。

大堀切

敵兵が尾根づたいに進攻してくるのを防ぐために造られた堀切は、山城にとって一般的な防御施設です。とくにこの大堀切は、金山城のなかでも最も主要な防御拠点である大手虎口の目前にあるため、長さ46m、幅15m、深さ15mと大規模に造られています。発掘調査の結果、この大堀切は尾根を形成している岩盤を深く掘り下げ、掘底は平らに削られている事がわかりました。また、掘底には長さ7m、高さ1.5m、幅1.8mの石積みでできた畝状の防御施設が1箇所見つかりました。掘底が平らになっていることで、敵兵の侵入経路にならぬよう、障害物として造られたものであると考えられます。

月の池

大手虎口

虎口は、城や城内の各曲輪への出入り口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に真も割れています。また一方、虎口の「構え」は、「格の高さ」を示す空間ともなっています。

大手虎口南上段曲輪

復元された釜戸。敵の侵入に備える武士達が使用した釜戸です。昔は建物の外に釜戸を設けたことがありました。

井戸跡

日ノ池

日の池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や石敷、2箇所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷の下からは、日ノ池に通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。

日の池は山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所のひとつです。ここは、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。

また、水の信仰と関わる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は、築城以前から神聖な場所であったようです。

武者走り

天主曲輪の東側

天主曲輪裏馬場

馬場と言うが、実際は、馬場のある廓である。馬は山城でも伝令用として使われていたので、馬場の必要があるが、音に敏感な動物のため、攻撃にさらされないよう、城廓でも静かな裏側に設けられた。ここには馬薬用としての、さいかちが植えられてある。

金山城石垣

金山城は、全域を石垣で築かれた関東地方では珍しい城である。石垣用材は、金山石が手近にあるので使用したものであるが、大きな石は柱状節理の山麓の根石を山頂、山腹まで持ち上げた大工事である。積み方は、「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名、「ゴボウ積」とも言われる。断面は、直線的で、緩傾斜し、栗石を十分使用しているために強固である。

本城

金山城の中枢で、水ノ手廓を中心として約1万坪ある。実城とも言い、城主の御殿があったところなので城主を実城殿とも呼んだ。御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。武者造り、掘切りは壕内道を兼ねている。本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。

本丸跡

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