自分なりの合気道感

強さは相対的なものに過ぎない

上には上がいて下には下がいるように、トップのただ一人を除いて「絶対的に強い」ということはまずありません。勝つとは「相対的に強かった」ということであり、負けるとは「相対的に弱かった」ということに過ぎません。
負け戦をするのは愚か者であるし、勝てると分かりきって勝負を挑むのは卑怯者。引き分けなら骨折り損。いずれにしてもよろしくありません。

何故戦うのか

戦う理由を考えると、それは敵が居るからであり、敵が敵性行動を取るのにはそれなりに理由があります。

例えば、イデオロギーの対立や、生活に困窮してそのような行動に走っていたり、不平不満を感じて正義感からその行動を駆り立てたり、はたまた自分に非があった為であったり、全ての結果には原因があるのです。

そこに生じる戦いは「結果」であって原因でも本質でもありません。それぞれの敵に凶行に至る背景があるはずなので、そこを武力のみで解決に導くのは誤りでしょう。

「スポーツ」としての格闘技は戦って勝つことが本質とされています。その性質から、たとえ分が悪い勝負に対しても挑む事が重要で、負けた場合は「来年の大会こそは」と次に勝つために稽古をする。一方、生死が掛かっている「武道」においては、負けたらそこで人生が終わってしまい来年など来ません。スポーツでは逃げれば不戦敗ですが、武道では「逃げるが勝ち」が正しい場合があります。

合気道の目的は戦いよりも調和

例えば、コーヒーにミルクを入れると最初はコーヒーとミルクの境目がよく分かりますが、この状態をエントロピーが低い状態とするなら、コーヒーとミルクが完全に混ざり、境界線が見えなくなった状態はエントロピーが高い状態であると言えます。「覆水盆に返らず」とは自然界の不可逆性を説いているものであり、自然界ではエントロピーを増大させる働きが常に起こっています。

四季折々様々な植物が花を咲かせるように、動物や虫は群れを成し、人間が社会を形成するように、地球上の全ての生命は、自然界とは逆に、エントロピーを縮小させ秩序を形成する存在であると言えます。したがって、我々生命の使命は秩序の形成・維持であることに違いないでしょう。「合気真髄」に載っている次の一文はそういう事を言っていると思われます。

すべては一元の本より発しているが、一元は精神の本と物体の本を生み出している。それは複雑微妙なる法則をつくっている。(略)また、過去、現在、未来は生命呼吸として人生の化育を教えている。宇宙万有の世の進化は一元の本より発し、我らをして楽天に和合へと進展させている。

秩序を整えれば争いやぶつかり合いは端から起こらない。合気道の目的はそこにあるのでしょう。

合気道というフレームワーク

プログラミングに例えると、合気道とは植芝盛平が開発したフレームワークです。技の一つ一つがライブラリであり、我々は反復稽古というディープラーニングによって習得します。

合気道の技は一挙主一等速、無駄が無く、ロジカルに組まれた美しいプログラムの様です。その「完成された技」というライブラリを読み出し実行することにより、「相手を投げる」という結果が出力される。見る側からするとライブラリはブラックボックスなので魔法を使っているようにしか見えない。見る人の中にはそれが信じられずインチキだとか八百長だとか言われる事がしばしばあるのだけれども。中には馴れ合いのような稽古もある事は否めませんが、本物に対しても本質を理解せずにそのような感想を述べる人も少なくありません。

武産合気とは合気道というフレームワークから最適なライブラリを読み出し、様々な環境・動作の下で条件分岐を行い、その都度プログラミングを行い出力を行うという事でしょう。

合気道は武道という体を成してはいますが、森羅万象の摂理の上で行われる一種の生命の活動であるとも考えられます。その辺の考えはまだぼんやりとしていますが、つまるところそんなところだと現段階では思っています。

ファイル・ロケーション: 合気道

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