人生は有限だからこそ

人は絶対に死ぬ

人生は有限って誰でも知ってる事だけれども、その理解度は人それぞれである。少し前の自分は死について「いつか死ぬだろうけどまだまだ先のことだろう」としか思っていなかった。

しかしクローン病という原因不明の自己免疫疾患にかかった経験や、死んでいった身近な人たち、衰弱していく飼い犬を見てきたことで、「死」の存在を身近に感じ始め、人生についての考え方が変化してきた。

うちの犬は自分が小学4年の頃に貰った雑種の犬だ。小さい頃からこいつと一緒に成長してきた。しかし今は衰弱して死にそうな老犬。苦しむ様子に自分も心苦しさを覚えながら、どうか最後まで安寧に居て欲しいと願う。

だがそれと同時に、この犬は「苦しみながらも一体何のために生きているのだろうか」と疑問に思う。外の犬小屋に鎖で繋がれ、毎日の散歩だけを楽しみに毎日を過ごす。このような生活でどれだけ満足な人生ならぬ犬生を送れたのだろうか。

違いは「残り時間」

では自分はどうなのだろうか?満足な人生を送れているだろうか?

この犬と自分との根本的な違いを考えたら、「残り時間」だと思った。幸福のあり方などは人によって様々だが、時間については寿命の違いはあれど全ての生命に平等に流れている。

自分もこの犬と同じように老衰または病気で衰弱することになる。そして死は不可避である。その時が来るのは数年後なのか数十年後なのかはたまた明日なのかは分からない。

だからこそ何らかの不自由に見舞われるまでに意義ある人生を送れるかが重要ではないだろうか。いつ死んでも後悔しないように今を全力で生きる事は重要だと思う。

生きる意味

生命の存在目的はその性質上、生きること自体であって、その他の目的は設定されていないのだと個人的には思う。ただ、生命はエントロピー増大の法則に抗い秩序を形成するという存在であることが明らかなため、生命のあるべき姿としては、秩序を構成することに尽きるのではないかと思う。

動物や虫や植物を観察すると、身体機能をフルに使って活動しているように見受けられる。逆に使わない機能は退化していく。一方人間を見てみると、工場のライン工という頭を使わないような作業を黙々とやっていたりする。本来人間はもっとクリエイティブなことを行える手足や知能を持っているのにも関わらずそのような事を行っているのは自然の摂理に反するのではないだろうか。そのような仕事は機械やAIに置き換わるべきである。(誤解されそうなので補足しておくが、ライン工をディスっているわけではない。いわゆる「悪魔のひき臼」を嘆いている)

物事を時間軸で考えることは重要

人間は高度な技術を有し、様々な物質を自在に操ることができるようになったが、時間だけは例外である。人生は有限であることに気づくと、時間ほど大切なものはない事が分かると思う。もし時間の大切さが実感できていない人はいつか後悔すると思う。

何でも物事を行うには時間が必要コストとなっている。なので趣味にしても何にしても始めるのは早いほうがいい。俗に「1万時間の法則」といわれるものがあるが、1万時間に到達する時に自分は何歳なのか、余命は何年なのかを考えると、しり込みするほど未来の可能性が収束して行ってしまうことに気づくだろう。

世の中には「暇つぶし」という言葉が存在するが、時間と言う貴重なリソースを「暇」というカテゴリにくくって潰してしまうのはもってのほかだ。

自分は合気道につぎ込む

自分は現段階では合気道に1万時間どころか人生の全ての時間をつぎ込む覚悟でいます。合気道は脳も全身も使い、体力が落ちた老後もできる武道です。合気道は武道の範疇を超え、人と人、文化と文化を繋げる架け橋にもなりうる「道」だと思っています。世界に誇る合気道に一生携わることができれば自分は満足です。晩年・死後には合気道といったらあの人と言われるような人になりたいと思っています。

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