映画パトリオット・デイを見て感じた違和感

パトリオット・デイとは2013年に発生したボストンマラソン爆弾テロ事件を基にした映画です。実際の映像も組み込まれており、事件のwikiを読みながら観ましたが、かなりのリアリティがありました。映画としてはいい出来だと思います。むしろそこらのフィクションよりも面白いかもしれない。

最後には愛によって悪に打ち勝つ、悪との戦いに勝ったんだ。善が必ず悪に勝つと信じることだ。テロリストは命や手足を奪ったが、人々が結束し共に前進する精神を与えてくれた。と締めくくられています。そこにちょっと違和感というか気持ち悪さを個人的に感じてしまいました。

というのも、善悪だとか正義というものは軸足を置く場所によっては全く正反対になってしまう曖昧なモノであり、善悪の境はグラデーションで変化するものです。絶対的な正義なんてありえない。コインに表と裏があるように正義の裏面には悪がある

例えば、イデオロギーAとイデオロギーBがあったとしましょう。Aの中では善とされていることだとしても、Bからしたら悪とされていることであったとしたら、BはAに対して正義という名目のもと干渉してきます。Aが少数派のイデオロギーだとしたら、多数派のBに正攻法で立ち向かうことはできません。民主主義の世の中は数が多い方が暫定的に正義となってしまうため、おそらくAの人たちができることは実力行使くらいしか選択肢がなく、それはAから見れば聖戦であるが、Bから見ればテロと呼ばれる。

このようなイデオロギーの対立はもっと身近にもあると思います。キノコVSタケノコとか。熱心な左翼だった人がしばらくしたら熱心な右翼になっていたというのはよく聞く話で。物事は善悪の二元論では語れないものであって、正義のソースを求める先が民主主義にあるのかイスラム原理主義にあるのか左か右にあるのかで善悪はコロコロ変わってしまうということです。

劇中というか事実のようですが、ボートの中に潜んでいる犯人と思われる人影に対して、警官たちがタープ越しに大量発砲したというのも狂気を感じます。その人影が容疑者であるかどうか・武装しているかどうかを確認しないだけでなく、投降を呼びかけるという形式的な対話すらしないという。

結局二人の若者が凶行に至った動機などについては劇中では説明されていないしwikiにも書いてありませんでした。結局イスラム過激派やアルカイダなどテロ組織との関連は見つからなかったそうです。それでも殺人事件ではなく、テロ事件として扱われている謎。

色んな映画を見ていて思うのですが、やはりキリスト教圏の作品は復讐だとか悪を滅ぼすような作品が多い気がします。やはり”目には目を歯には歯を”という意識があるからでしょうか。自分の属するイデオロギーを是として、悪を滅ぼすのは良いとしても、他のイデオロギーとまずは対話をして最善の道へと進むという努力をしてもいいのではと思います。イデオロギーを越えた対話こそが人間的で平和だと思うんですけどね。敵対するイデオロギーを鎮圧したからといって勝ったの負けたの言うのもどこかずれている気がします。

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