謎多き「法神流」の剣祖「楳本法神」とは何者か?

0 Takuya Kobayashi

とある記事で「楳本法神」という人物名が目に留まった。
最初は人物名と思えず、何なのかググって見たら謎多き剣法家だということが分かった。

ググって見る限り、現時点では「楳本法神」について言及されているウェブページは4つほどしかなかった。何でもググれば分かるネット社会だというのに、こんなにも極僅かな情報量しか得られない「楳本法神」という人物にすっかり惹き付けられていた。

Wikipediaによると楳本法神について以下のように載っている。
ソースは『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社) を元にしていると思われる。

楳本 法神(うめもと ほうしん、1727年(享保12年) – 1830年(文政13年)8月14日は、日本の剣法家。

本姓は富樫で、加賀金沢の富樫政親(政高とも)の子という。父から家伝の剣法を学び、長崎で医学と占術を学び、1日に30里を走るなど、文武とも卓越していたとされる。

晩年は、上州(群馬県)赤城山に住み木曽三柱神社の境内で法神流剣法を指南。門人3千といわれた。その剣法は法神亡きあと、法神流として伝えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B3%E6%9C%AC%E6%B3%95%E7%A5%9E(2019323閲覧)

生まれは現在の石川県で姓は富樫。文武に卓越していた。晩年は赤城山に住み、「木曽三柱神社」の境内で法神流剣法を指南しており門人が3,000人も居た。とのこと。

「法神流」は初耳だった。3,000人もの弟子がいるのなら、もっと有名でもおかしくないはず。。後述の数多くの矛盾から、架空の人物である可能性も考え、流派の存在すら疑いかけたが、法神流出身という持田盛二らの存在によって「楳本法神」が全くの架空ではない事を裏付けている。

法神流の使い手(1) 持田盛二

生誕 1885年1月26日
群馬県勢多郡下川淵村
死没 1974年2月9日(89歳没)
記念碑 持田盛二先生頌徳碑(前橋市)
国籍 日本
別名 号:邦良
出身校 大日本武徳会武術教員養成所
流派 法神流、北辰一刀流
肩書き 剣道範士十段
受賞 勲三等旭日中綬章
紫綬褒章
警察功績章
大日本武徳会一等有功章
全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰

持田 盛二(もちだ もりじ / せいじ)、1885年(明治18年)1月26日 – 1974年(昭和49年)2月9日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。「昭和の剣聖」と称される剣道家の一人。

先祖は戦国時代の武士・持田監物。監物は上泉信綱らと共に上野国箕輪城主・長野業正に仕え、後に帰農した。盛二の父・持田善作は、法神流剣法第4代継承者・根井行雄の高弟で、免許皆伝の腕前を持ち、群馬県勢多郡下川淵村の自宅に道場を設けて門人を指南していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%94%B0%E7%9B%9B%E4%BA%8C

法神流の使い手(2) 中沢琴 

中沢 琴(なかざわ こと、生年不詳 – 1927年10月12日)は、現在の群馬県出身で新徴組に参加した法神流の女剣士。父は利根法神流剣術の道場主中沢貞清(通称:孫右衛門)。兄は新徴組隊士の中沢貞祇。

上野国利根郡利根村穴原(現在の群馬県沼田市利根町穴原)生まれ。幼少から剣術、とくに長刀に優れ、1863年、浪士組に参加する兄に従い男装して京へ上り、のち新徴組に参加、各地を転戦した。当時としては男としてもかなりの背丈となる 170 cm と言う身長で、男装していれば娘たちに惚れられて困ったらしい。

自分より強い者と結婚すると決め、結局現れなかったため生涯独身で過ごした。

1927年10月12日死去。琴の死後、故郷にある彼女の通っていた道場が大正初期に焼失して記念碑が建てられた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E7%90%B4

リアル薄桜鬼ですね。ちなみに彼女の物語はNHKにて黒木メイサ主演でドラマ化されています。「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」(2017年)

楳本法神の寿命について

楳本法神はWikipediaの情報によると1727-1830年つまり103歳で没したとある。注釈に「木曽三柱神社の法神流剣法伝統碑によれば、168歳で没したとある。」とも書いてある。平均寿命が50歳前後の時代に103歳というのは長すぎる気もするが、人間の最大寿命を120歳と考えると現実味はある。しかし168歳はどうも眉唾である。

木曽三柱神社

楳本法神は晩年に木曽三柱神社で指導をしていたとの事なので、「木曽三柱神社」をGooglemapで調べてみたが、非常に珍しい事にレビューが一つもなかった。(執筆時)それだけ無名な神社なのだろう。1kmほど西によく似た名前で「木曽三神社」があり、そちらにはレビューがちゃんと付いていた。

「木曽三神社」と「木曽三神社」、これだけ名前を似せているのだから何かがあるのだろうと思い調べてみると、養子と養祖父のケンカが村ぐるみの争いに発展し、養祖父が「木曽三柱神社」を現在の場所に作ることで分裂して現在に至ったとのこと。

木曽三柱神社の創設には複雑な経緯があるようだ。安政二年(1855)、滝之宮(現木曽三社神社)の神主になった高梨宮之亮(養子)は養祖父高梨八千穂と合わず、この争いが箱田・下箱田両村の争いに発展。宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の将軍塚上に一社を創設、拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。後に箱田村は新宮を建立、滝之宮より分立、木曽三柱神社と称した(平凡社刊「群馬県の地名」)。

ここで矛盾に気づく。楳本法神が没したのは1830年。木曽三柱神社ができたのが1855年。楳本法神の死後に木曽三柱神社ができたのだから晩年に木曽三柱神社の境内で剣術を教えることなんて不可能である。

しかし、木曽三柱神社には法神流伝統碑が置いてある。

木曽三柱神社にある法神流伝統碑 http://www3.wind.ne.jp/sudash/mytown/b-kengou/hibunkiso.htm

金山宮

法神流の発祥の地として赤城町深山が挙げられている。金山宮には「新法神流伝来碑」という石碑が設置されている。

金山宮にある「新法神流伝来碑」

木曽三柱神社の石碑と金山宮の新法神流伝来碑の情報をまとめると、法神流の筋は以下のようになる。

奥山休賀斎(=音住):上泉伊勢守の高弟。徳川家康の剣師。晩年三河明神に隠棲して神僧となり音寿斎(音住斎)と号す。
右坂保重:奥山休賀斎の高弟
富樫政親:加賀国の名族。右坂保重に教えを請う。
富樫政武:数世の子孫。楳本法神と名乗り始める。
→須田為信:中沢伊之吉に名声を妬まれ、山崎孫七郎ら数十人に待ち伏せされ最終的に銃殺される。(園原騒動
勝江玄隆(森田与吉):為信襲撃の際、為信と共に居たが、為信によって命からがら逃がされる。遭難の後、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。
根井行雄:高弟に持田善作あり。持田盛二の父である。

勝江玄隆(森田与吉)が箱田出身だったため、木曽三柱神社に法神流伝統碑が建っていたのだ。

根井行雄については群馬の民俗学者である今井 善一郎の著書 『根井行雄伝』北橘郷土研究会 1958 に詳しくありそうだ。

医光寺にある楳本法神の墓

群馬県桐生市黒保根町上田沢326の医光寺に楳本法神の墓がある。

非常に分かりづらいが、本堂の脇の階段を上っていき奥にあった。「大富樫院靏誉白翁居士」という立派な戒名が彫られているが、「大」が彫り損ねているように見える点が気になる。

墓の隣に立っていた黒保根村教育委員会の案内板にはこのように書かれていた。

楳本法神の墓

法神は加賀国(石川県)に生れ、長じて上泉伊勢守に師事した武芸者である。後に一流を編み「法神流」の剣祖となり、諸国を廻り多くの剣士を育てた。園原騒動で有名な赤城村須田房吉も法神の高弟であった。また医術の心得も深かったという。

文政十三年、門人青山歌之助(柏山の住)なる家に病で客死したが、その享年は百六十八歳と伝えられている。大正八年吉祥寺(柏山)の廃寺とともに当寺に移骨されてあったが、昭和四十七年にいたり五十五世住職恭信師によって埋骨、墓碑が建立されたものである。

一通り調べてから改めて黒保根教育委員会が作った説明を読んでみると、これまた大嘘書いているなぁと関心する。
上泉伊勢守は1508年生まれ1577年没とされており、楳本法神は1727年生まれ1830年没とされている。彼らの間には150年もの時間差があるため「長じて上泉伊勢守に師事」は不可能。奥山休賀斎と間違えている。ちゃんと石碑や資料を読めば間違いに気づくと思うのだが、職員が適当に作文をしてしまったようだ。

まとめ

法神流の起源は新陰流の上泉伊勢守にさかのぼる。上泉伊勢守の高弟に奥山休賀斎という剣客が居た。奥山休賀斎は後に徳川の剣師となり、晩年は出家し「音寿(住)斎」と号す。奥山休賀斎の高弟に右坂保重がおり、諸国を巡り、加賀国(現在の石川県)に至る。そこの名族である富樫政親に奥秘を教え、富樫政親より五伝して富樫政武に至る。

奥山休賀斎→富樫政武の流れは園原騒動の発端となった額でも確認できる。

富樫政武には天賦の才があり、名を楳本法神と変え、諸国を巡る。長崎で医療も学んだ後、晩年には赤城の麓で過ごす。楳本法神の高弟には須田為信がおり、最終的には数千人もの門弟を抱える流派になった。新法神流伝来碑が置いてある金山宮は須田為信が生まれた場所とのこと。木曽三柱神社に法神流伝統碑があるのは、須田為信の高弟 勝江玄隆(森田与吉)がここ箱田出身であったため。

「法神流」は今も渋川の方で受け継がれているようだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/amb_akagi/folder/1143199.html

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以上